暑さに負けず笑顔で行進
7月24日(木)に竹ノ塚第五公園に集まり、平和大行進の集会とデモ行進を行いました。全体で170人、足立支部からは65人の参加でした。
核兵器廃絶をうったえて全国を歩く国民平和大行進が半世紀続いることが集会の中で報告がありました。当日は天気が曇りでしたが、蒸し暑い中での集会となり、参加者はうちわを扇ぎながら実行委員や区議の話に耳を傾けました。
集会終了後は梅島にあるベルモント公園まで沿道の人達にパンフを配りながらデモ行進を行いました。
佐藤昌孝さん
【佐藤昌孝・76歳・木工・竹保分会】
毎年感じますが、若い人の関心が薄いです。私の若い頃は戦時中で警報が鳴るとすぐ爆弾が落ちてきました。もっと戦争の愚かさを知ってもらい、九条を守ってもらいたい。
佐々木文雄さん
【佐々木文雄・74歳・タイル工・竹保分会】
平和行進は良いことだね。戦時中はよく家の近くに焼夷弾が落ちてきたものだよ。夜は電気が漏れないように暗幕を使ったり、怖かったですね。戦争は断固反対です。
あまりのひどさに心が痛んだ
東京大空襲の話は聞いてはいましたが、炭素化して真っ黒くなった映像を見て、あまりのひどさに心が痛んだ。被空襲地域3分の2が消失、10万人もの死者を出した。指揮を執ったカーチス・ルメイは勲一等旭日大綬章を天皇より授章していることを初めて知りました。
最近無謀な無差別殺人が起きているけど、戦争は1回り、2回り大きな悲しみがあったはずです。
アメリカのイラク戦争で「平和の為に戦争をやった」と言っていますが、北千住法律事務所の小寺先生の話しにもありましたが、武力では平和は勝ち取れない事が証明されたのではないでしょうか。その代表的な九条の会を守りたい。
神田春之
二度と悲惨な戦争はあってはならない
石井孝一さん
私が燗剌ャ学校を卒業したのは昭和18年4月でした。戦局が少しずつ厳しさを増して、卒業後は皆軍需工場へ行けと言われて東京の赤羽にある工場で期待と不安に満ちて働きました。その年初めて警戒警報が出て、工場全体に緊張感が漲りました。昭和19年に入り、その回数がますます増え、夜は大切なものだけそばにおいて寝ました。連日連夜の空襲に近くの丘に逃げ込み、上空からB29の焼夷弾や爆弾が雨あられの如く投下され一面が瞬く間に火の海と化し、仲間達と風上へ風上へと避難して、火災が治まるのを待ちました。
また、ある時は艦載機による機銃掃射を受けたこともありました。そしてあの原爆が広島長崎に投下されて、戦争は終わりました。二度とこのような悲惨なことはあってはならないと心から祈ります。
石井 孝一