新田忠明さん
終戦の前の年、疎開先の福島県・平市(現いわき市)で出生、母親の実家や親戚を頼り、千住2丁目(北千住駅の路線沿い・飲み屋横丁)に落ち着いたのは私が3歳の時でした。町中が貧しいときでしたが、戦後の復興時、ある意味活気のあるものでした。
当時は現在のように飲食店などはほとんど無く、主に職業安定所(ニコヨンさん・全日自労)の為の芋屋さんが数件有り、北千住駅の貨物を運搬する荷馬車が行き交いそれは賑やかなものでした。駅前広場は今でこそ皆さんご存知の通りですが、当時はお盆の時には演芸会、盆踊りなども行われ、忘れられないのが傷痍軍人さんや若いお姉さん、お兄さんが青空楽団をやっていたことで、今では考えられません。私が家の近くにいないときは近所のおばさんが「ターちゃんなら駅前だよ」と教えてくれて、大勢の人達の真ん前で一緒になって歌っていたそうです。
実家兼足立支部事務所の前で
結果今でも「異国の丘」や「青い山脈」は私のレパートリーです。その後昭和24年9月より昭和33年9月(その間3年ほど千住の龍田町に移動していた期間あり)まで足立支部が我が家に同居し、すでに亡くなられた門田さん、最近逝去された三枝さんにはよく可愛がられました。終電間際の会議は議論沸騰、激高し、あげくは灰皿など飛び交い、棚のガラスが割れるやら今では考えられないことですが、仲間としての認識・確認が出来たのだろうと、今思います。町の風情も、組合の仲間との関係もこどものころを思い起こすと、今は昔懐かしい「私のふるさと」です。