燉怏タ津子さん |
私は東京都足立区梅島で生まれ、東武鉄道の沿線の下にある実家で育ちました。両親から聞いた話では3歳までは戦争中ということもあり、防空壕を出たり入ったりする生活をしていたようです。
それから戦争が悪化し母の実家がある千葉県印旛村に6歳まで疎開しました。私は小さいながらも畑や渡し舟をやる祖父のお手伝いをしながら、楽しく日々の生活を送りました。
兄も同じ時期に父の実家がある新潟に疎開しましたが、祖父がなくなった時にわらを山のように積み、その上に祖父の亡骸をのせ火葬しました。次の日の朝に骨を箸と箸で持って壺に入れたことを、幼少の頃でしたが、今でもはっきりと覚えています。
戦争が終わっても東京は食べるものが無く、田舎にいる祖母がタクシー1台にいっぱい食料を積んで遊びに来るのをいつも心待ちにしていました。
懐かしの名物おばけ煙突
昔の足立区は、道に馬が通っていて、線路沿いにはどぶ川が流れていました。昔は足立区の地域は洪水になりやすく、家の床の上に木の箱を置き、その上に畳を敷いて暮らしました。西新井大師は昔からあり、よく遊びに行ったものです。足立区には田んぼも多くあり、田んぼで取ったセリやザリガニなどが食卓に並びました。幼少期は家の手伝いでほとんど時間がなく、ほんの少し空いた時間に塗り絵や着せ替え人形で遊びました。
昔と比べ、梅島も区役所や東京土建の会館が出来るなどめまぐるしく発展しています。今はコンビニがどこに行ってもありますが、昔は食べ物も外では手に入らず、東武鉄道に勤める兄に毎日お弁当を届けました。便利な世の中になりましたが、昔を振り返ると少し寂しい気もします。